またここで、昔話に花を咲かせよう。未来を心待ちにするように。

日常の在り方と形は、日進月歩で大きく変わり続けています。

身の回りは便利なものに溢れ、例え独りでも不自由なく生活出来るかもしれません。一方で、何でも揃う都市へと人々が集まる流れの中、気付いたら一日挨拶を交わすことすら無い、
そんな町が私たちの孫の代ではそこかしこにあるでしょう。

「生活」は出来たとしても、そこに「暮らし」はあるのでしょうか?

「暮らし」とは、「日が暮れるまで時を過ごす」という言い回しが語源であり、
そこから「月日を送る」という意味が生まれたと言います。
誰かと共に、日が暮れるまで言葉を交わし合う。そこに「暮らし」があります。

この地の名前にある「悠久」とは、これまで刻まれた時間が、果てしなく長く続くこと。「里灯(さと)」は、故郷に明かりが灯り、また帰ってきたくなるような希(ねが)いが込められています。

どうすれば「心豊かな暮らしの時間」を、わたしたちの子どもや孫、
さらにその先の世代まで続けることができるのだろう?

互いに手を取り合いながらその問いと向き合う場が、ここ「北陸悠久の里灯さと HASADANI」です。

みんなで少しずつ歩み寄り、互いに支え合う里灯へ。

自分たちの暮らしは、自分たちでより良い方へ。

この里灯さとでは、「少しずつ皆で手を取り合う」ことを大切にしています。決して強いられるわけではなく、でも何かみんなにとって良いことに少し手を添えておきたい。

お買物へ向かう途中、道端に季節を告げるような花々が咲いていたらいいな。そんな小さな自分たちの暮らしへの思いの種を、互いに丁寧に育んでいく。

そんなやわらかい灯りが、地域全体にひろがるような未来へと歩んでいます。

見過ごしてしまいそうな地域の価値を、磨き続ける。

悠然とそびえる山々、嫋やかにせせらぐ川、懐かしく燈る夕焼け。

わたしたちの暮らす里灯さとは、山紫水明の言葉に込められるような美しさに囲まれた地。あまりに近い存在だけに、つい瞳に映らなくなってしまうような価値が、
いたるところに散りばめられています。

豊かさの写し鏡のような“価値”に小さな光を当てることも、
未来へ向けた私たちの役割です。

誰もが集まり易く、誰でも訪ね易い場を次の世代に。

時間になったら居間に集まり、ちゃぶ台を囲む。ご近所さんから作り過ぎてしまった煮物をおすそ分け。長旅の方が訪ねてきたら、採れたて野菜でおもてなし。

もしも無くなってしまったらどことなく寂しさが浮かんでしまいそうな、
かつて日本のどこにでも当たり前にあった風景。

互いに歩みより、自然と心寄せ合う里灯の在り方を、こどもたちに伝えていきます。